カテゴリ: つれづれ日記
9.11の出来事は何の罪もない人々が犠牲になったわけだから、あの行動が許されるはずはない。しかし、その後、アメリカによるイラクやアフガンでの報復戦争では、何万というやはり何の罪もない市民が犠牲になった。これについて、アメリカ政府はどう考えているのだろう。暴力によって暴力は抑えられないということは、世界の歴史が教えているにもかかわらず、なぜこうしたことが繰り返されるのだろうか。
イラクやアフガンへのブッシュ前大統領に対して批判的だったはずのオバマ大統領が、この行動を許可したということの背景には、自身の支持率の著しい低下があったのではないだろうか。国民の目線を外に向け、ナショナリズムを高揚させるということも、国家権力がたびたび行ってきた常套手段だ。たしかに一時的には国民意識は外に向く。オバマ大統領には期待している部分も多いだけに、今回の判断は残念だ。
ひるがえって、日本の状況にも一抹の不安を感じる。今、「日本は強い国」「日本は一つ」というスローガンが国中にあふれている。たしかに、震災と原発被害に対して、日本国民が支援をすることは大切だし、やらねばならないことだ。被災地への支援の気運を高めることは重要だろう。しかし、この言葉自体が一人歩きすることに不安を感じる。
たくさんの問題を抱えている日本が、この言葉によって、その一つ一つが見えなくならないようにしなければならない。
原発の問題も実は国策によって安全神話が作られてきた。原発に疑問を表明する学者はどんなに優秀だったとしても、助手までにしかなれなかったというのは常識だそうだ。教授への道も閉ざされ、研究予算も付かなければ、節を曲げる人もいたにちがいない。 テレビで解説をしてきた多くの学者たちは、基本的には原発推進派だった人が多いのだろう。原発に対して技術的な解説に終始し、本質論を展開する人は少なかったように見える。
国が、政府の都合によって自由な意思を押さえつけるということはもっとも行ってはならないことだ。権力は、世論を誘導することが一定は可能である。原発問題は国策ということに対して大きな問題を提起している。本来の民主主義のあり方を、ナショナリズムの問題ともあわせてもう一度考えるときだろう。
視野を広く持った批判精神を維持し、それを発表する場を確保していくことが大切だ。
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