カテゴリ: つれづれ日記
碌山こと荻原守衛の没後100年展が2月5日から3月6日まで、県信濃美術館で開催されている。
安曇野の穂高にある碌山美術館は、家が近いこともありよく訪れていた。碌山の彫刻はそれなりに知っていたつもりだったが、今回の展示では、碌山美術館で見ていた荻原守衛の彫刻とはまったく印象が違った。良くも悪くも、安曇野の碌山美術館にある彫刻は、あの建物と風景と一体化して認識されている。寺院にある仏像が美術館の展覧会場に出てくると、まったく違う印象を持つのと同じだ。
信濃美術館では碌山の彫刻が、周りの風景や建物と切り離されて、独自に存在していた。あらためて、日本の近代彫刻の曙となった荻原守衛という作家が浮き上がって見えた。
セザンヌやモネやルノワールと同世代の彫刻家ロダンの強烈な影響を受け、ロダン風の作品を作った碌山だが、その作品はロダンのコピーではない。粘土の中に生命を吹き込むことに情熱を傾け、新しい時代を切り開こうとした個性が碌山の彫刻には感じられる。
形をきれいに作るのではなく、印象派の作家たちが、自分の感性で捉えた自然や人物を、独自のタッチで描き出したように、碌山の彫刻には、自らの手が生み出したタッチが強烈に現れている。セザンヌやルノワールやゴッホのタッチのように、碌山は彫刻の中に己のタッチを必要としたのだろう。碌山の作り出した人体の形の中にそれは刻まれている。
個性、個人の感覚、思想の表現ということを意識し始めた碌山というアーティストは、その人生の中でも個を貫いたといえるのではないだろうか。
現代は、恐ろしく早く流れる時流の中で、己というものの存在をしっかり見つめることが難しくなってきている。こういう時代だからこそ、碌山の彫刻は何か大切なことをわれわれに語りかけてくれているように思う。
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