カテゴリ: つれづれ日記
最近、東京へ出張するたびに感じるのは、東京が暗いことだ。
駅も、デパートも、店もどこもかしこも暗い。電車もダイヤどおりに走っていないことも少なくない。中央線の特急「あずさ」は前日まで走るかどうかわからないということで、予約ができない。
あらためて、われわれの生活がどれほど電気によって支えられていたかを思い知らされる。
しかし、と思う。ぼくの子ども時代はどうだったのだろう。町はこんなに明るくなかったし、暖房だって、学校は石炭ストーブで、家には炭の炬燵があり、おしゃれな石油ストーブがあることは近代的な家の象徴だった。祖父母のいる信州に来れば、薪ストーブが当たり前だった。
電気釜も、冷蔵庫も、電気掃除機も、テレビもなかった。列車は蒸気機関車がもくもくと煙を吐いてがんばっていてた。
しかし、今は家中に電化製品があふれ、オール電化の家が、憧れの的になっている。エアコンによる暖房が当たり前で、この夏はエアコンの冷房による電力不足が懸念されている。昔は冷房なんてなかった。
うろ覚えだが、ソビエト革命のとき、レーニンが社会主義とは「電化である」と語ったという文章を読んだ記憶がある。厳しい労働を軽減し、人間が豊かに暮らせることを「電化」に託した言葉だと理解した。子どものころ、ぼくは科学技術の発展は人類の幸福につながると信じて疑わなかった。
たしかに、科学の発達により、人間の生活は便利になり、効率はよくなったかもしれない。しかし、この数十年の間に失ってきたものも多いのではないだろうか。
文明化ということは、人間の持っている力を劣化させ、自然の恵みに感謝し、自然とともに生きるという思想を過去のものにしてしまったのではないだろうか。
いま、私たちは科学技術礼賛の哲学を、一度立ち止まって見直す時期に来ているのではないだろうか。
人の幸せとは何かを問い直す必要がある。新しい、哲学が求められている。
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