松本猛(たけし)のブログ「つれづれ日記」。日々の感じたことや考えたことなど、つれづれなるままに綴っていきます。
?信州自遊塾の第2回講座「女優・根岸季衣と3.11後の生き方を語ろう」が29日13:30から豊科交流学習センター(豊科近代美術館となり)で開かれます。根岸さんはエネルギッシュで人間的にもとても魅力的な人。当日は朗読あり、歌ありの楽しい会になりそうで、対談をするのがいまから楽しみです。お時間のある方は是非お出かけください。詳細は信州自遊塾(http://www.jiyujuku.org/)まで。
?
この夏はほんとうにいろいろなことが重なり、すっかりブログからご無沙汰してしまいました。
忙しかった理由の一つに信州自遊塾の立ち上げがありました。3.11以後、われわれはどう生きたらいいのだろうか、という問いをたくさんの人が発してきました。松本大学の元学長の中野和朗先生と、ちゃんとものを考え話し合う場が必要な時代だと話し合う中で、信州自遊塾というものをつくろうということになりました。中野先生が名誉塾長で、不肖、私が塾長を務めさせていただくことになりました。松本、安曇野、塩尻、諏訪などから30人ほどの運営委員が集まり、塾の方針を決めて、楽しく考え、語り合おうという場です。第一回イベントとしてシンポジュームを9月11日に松本大学で行ないます。テーマは「信州の自然エネルギーを考える」です。詳細は以下のHPをご覧ください。入会もここからできます。皆さんの参加をお待ちしております。
お勧め展覧会二つ。
松樹路人展 茅野市美術館 8月29日まで
松樹さんは古今の美術を本当によく研究し、美術史に名を残した人々の作品の特徴を、見る人にわかるように絵のなかに取り込んでいます。しかも、絵を見ていると、松樹さんがその作品とどんな会話をして来たかが、感じ取れるのです。真面目な絵でありながら、ユーモアが潜み、絵を読むことが楽しくなる作品展です。
http://www.chinoshiminkan.jp/museum/index.htm
瀬川康男展 ちひろ美術館東京 10月23日まで
400万部を越すロングセラー絵本「いないいないばあ」などを描き、去年亡くなった瀬川さんの遺作展。瀬川さんもまた、古今東西の美術に精通した画家でした。彼が影響を受けたのは民衆が作り上げてきた美術や装飾でした。そのなかにのなかに人間の個性を超えた生命の生動があると感じたのでしょう。自然界の生命の躍動をこんな風にとらえた人はいなかったのではないでしょうか。
?
?
?
福岡県田川市の石炭・歴史博物館でユネスコの世界記憶遺産に指定された山本作兵衛の炭鉱記録画を見てきた。田川市には炭鉱の坑道に入るための縦抗の鉄塔や煙突がまだ保存され、おおきなボタ山も残っており、当時の炭鉱町の姿が偲ばれる。
1960年ころ、石油資本の圧力などによるエネルギー政策の転換によって、炭鉱閉鎖が次々と行われ、大変な労働争議が起こった。そのころ、ぼくは小学生だった。父の松本善明がが労働争議の弁護士をしていたこともあって、当時の記憶は鮮明に残っている。
「あんま~り煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろ・・・」と歌う炭坑節の煙突(写真)を目の当たりにし、写真資料を見ながら、当時の活況と喧騒が伝わり感慨深かった。
抗夫として働いた山本作兵衛が描いた炭鉱記録画は、炭鉱労働者の過酷な仕事を伝えていて、ひきつけられた。あらためて絵とは何かを考えさせられた。
作兵衛は7歳で父について炭鉱に入って以来、半世紀も炭鉱で働き続け、60代半ばから子や孫に炭鉱での生活を伝えたいと筆を取り、1000点以上の作品を描き残した。人の、伝えたいという意思は、想像を超えるエネルギーを発揮するのだろう。
作品の技術がどうのこうのという以上に、作兵衛の絵は心に届くものがある。本来、絵は表現であると同時にドキュメンテーションとしての役割を持つ。
たとえば、絵巻や江戸絵本にしても(もちろん外国の絵でも同じだが)アートとしての価値と歴史資料としての価値がある。アートとしての価値とはなんだろうか。技術がどれほどすぐれていても、心に響かない作品は山ほどある。作兵衛は専門的に絵を学んだわけではないから、描き方は素朴である。しかし、多くの人の心を揺さぶる。
わずかな光しかなかった暗闇の坑道の中の状況は、実際には絵のようには見えない。しかし、作兵衛は、その中で仕事をした人間としての実感があったからこそ、リアルな迫力を持って、わかりやすい絵を描くことができた。
絵を描くということは、あらためて、表現したいものがあって、それを伝えたいという強い意思があるときこそ力を持つのだということを考えさせられた。
石炭というのは堆積した木の量によって層の厚さが変わる。大手の会社は厚い層の鉱脈を機械を導入して掘る。それに対して、弱小の会社は薄い石炭層を彫るから、上の絵のような腹ばいになった掘り方をせざるを得ないのだそうだ。それは落盤の危険を常に背負っている。給料は危険負担がある分だけ高かったそうだが、炭鉱工夫は、いつ死ぬかわからないという状況の中で、宵越しの金は残さない、という生活をしたそうだ。だからこそ、炭鉱の町は活気にあふれていた。
現在、ほとんどの炭鉱は水没させられ、再掘削は不可能だという。日本の石炭輸入量は現在増え続けている。原発の問題を含めて日本のエネルギー政策というものを、もう一度考えねばなるまい。
?
ブログからすっかりご無沙汰してしまい、読んでいてくださった方には申し訳ありませんでした。安曇野を離れていることが多く、余裕があまりない日が続くと、つい書くのがおろそかになってしまいました。
6月6日と27日NHKBSで夜の9時から「美の饗宴 東山魁夷 日本の心を旅する」という番組に出演します。一回目はドイツをテーマにした番組。20日の二回目は出演しませんが京都がテーマです。三回目は「山河に見つけた原点」というテーマで信州の自然が出てきます。
先日、東山魁夷が世に認められるようになるきっかけになった作品「残照」の取材地である千葉県房総の山、鹿野山にロケに行ってきました。
魁夷は終戦の直前、迫撃兵としての熊本で訓練を受けていたのですが、そのとき熊本城の天守閣から見た夕日を浴びる阿蘇山の風景に涙が出るほど感動したと記しています。二度と生きて絵筆を握ることはありえないという状況だったからこそ、あれほど感動したのだろう、と魁夷はいいます。戦争が終わって1946年に魁夷は鹿野山に登り、延々と山並みが続く九十九谷の景色を眺め、スケッチをし、その風景の上に阿蘇山ならぬ、夕日に映える八ヶ岳を重ね合わせて描きました。八ヶ岳付近は学生時代から通い詰めた信州の地のひとつであり、一年の内三分の一も滞在していたことがあるところです。風景のかなたに画家としての出発点になった山の景色を描きこみたかったのでしょう。
鹿野山の上から、魁夷と同じように景色を眺めながらいくつかのことに気づきました。まず描いた位置は現在の展望台より少し高いところだったろうと絵と風景を比較しながら感じました。魁夷が、描いたと思われる地点は、実はゴルフ場で削られてしまっていました。山並みが続く風景の中にも、点々とゴルフコースがあり、昔の景色とは面影を変えていました。
魁夷は大学を終え、ドイツに留学していたのですが、60歳を過ぎてドイツに行ったとき、20台のときと同じ景色がしっかり残っていると感動しています。魁夷は、政治的発言はしない人でしたが、自然保護についてだけは語り続け、現代社会は急ぎすぎているのではないかといい、ドイツの自然や古い町並みを大切にする国民性に惹かれると語っています。
魁夷が、今回の原発の問題を目の当たりにしたとしたら、どんな言葉を発したでしょう。彼の愛するドイツは脱原発に舵を切りました。
?
?
9.11の出来事は何の罪もない人々が犠牲になったわけだから、あの行動が許されるはずはない。しかし、その後、アメリカによるイラクやアフガンでの報復戦争では、何万というやはり何の罪もない市民が犠牲になった。これについて、アメリカ政府はどう考えているのだろう。暴力によって暴力は抑えられないということは、世界の歴史が教えているにもかかわらず、なぜこうしたことが繰り返されるのだろうか。
イラクやアフガンへのブッシュ前大統領に対して批判的だったはずのオバマ大統領が、この行動を許可したということの背景には、自身の支持率の著しい低下があったのではないだろうか。国民の目線を外に向け、ナショナリズムを高揚させるということも、国家権力がたびたび行ってきた常套手段だ。たしかに一時的には国民意識は外に向く。オバマ大統領には期待している部分も多いだけに、今回の判断は残念だ。
ひるがえって、日本の状況にも一抹の不安を感じる。今、「日本は強い国」「日本は一つ」というスローガンが国中にあふれている。たしかに、震災と原発被害に対して、日本国民が支援をすることは大切だし、やらねばならないことだ。被災地への支援の気運を高めることは重要だろう。しかし、この言葉自体が一人歩きすることに不安を感じる。
たくさんの問題を抱えている日本が、この言葉によって、その一つ一つが見えなくならないようにしなければならない。
原発の問題も実は国策によって安全神話が作られてきた。原発に疑問を表明する学者はどんなに優秀だったとしても、助手までにしかなれなかったというのは常識だそうだ。教授への道も閉ざされ、研究予算も付かなければ、節を曲げる人もいたにちがいない。 テレビで解説をしてきた多くの学者たちは、基本的には原発推進派だった人が多いのだろう。原発に対して技術的な解説に終始し、本質論を展開する人は少なかったように見える。
国が、政府の都合によって自由な意思を押さえつけるということはもっとも行ってはならないことだ。権力は、世論を誘導することが一定は可能である。原発問題は国策ということに対して大きな問題を提起している。本来の民主主義のあり方を、ナショナリズムの問題ともあわせてもう一度考えるときだろう。
視野を広く持った批判精神を維持し、それを発表する場を確保していくことが大切だ。
済州島四・三事件というのをご存知だろうか。
済州4.3平和公園にある記念館に足を踏み入れたとき、自分がほとんどこの事件について知らなかったことにショックを受けた。
1945年、第二次世界大戦で日本が降伏すると、朝鮮半島は38度線で北はソビエト軍、南はアメリカ軍によって分割され、占領統治が始まった。しかし、占領した国の思想がちがうからといって、そこに住む人々にさまざまな考えを持つ人がいることは当たり前である。一つの国として選挙をして独立国になるるべきだと考える人たちもたくさんいた。
済州島では1947年、南北が統一された自主独立国家の樹立を求めるデモを行った島民に対し、警察が子どもを含めた6人を射殺するということが起こった。アメリカ軍は、南朝鮮を反共の砦にしなければならないと考えていたから、反共の政権を作り上げようとしていた。翌年の1948年に南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことが決定された。済州島でも左右両派の対立が起こり、4月3日、単独選挙に反対する島民の蜂起が起こる。蜂起は軍や警察によって鎮圧されるが、そこから済州島の悲劇は始まる。
アメリカ軍は済州島をレッドアイランドと呼び、共産主義者ではない島民に対しても容赦なく取り締まった。8月15日に大韓民国が樹立されてからも、拷問、虐殺など筆舌に尽くしがたい弾圧が続き、1954年9月21日までに2万5千人から3万人の犠牲者が出た。
済州島は歴史的に流刑地だったこともあり、本土からの差別も激しいところだったそうだ。貧しさのために、日本が韓国を併合していた時代に日本に渡った人々のかなりの数が済州島民だったという。さらに四・三時件以後、弾圧を逃れるために再び日本へ脱出、密入国した人々も相当の数にのぼり、島民の一部は大阪にコミュニティーを建設したという。
記念館で説明してくれた人は、被害者だけがいて、加害者はわからない事件なのだと語った。つまり、国家が行った犯罪は不問に付されるということだ。この虐殺が公にきちんと調べられるようになったのは、実はキム・デジュン(金大中)が大統領になってからのことだ。なんと事件が起きてから半世紀を必要とした。反共を国是としていた韓国では、この事件は表ざたにしたくなかったのだ。
21世紀になって大統領のノ・ムヒョン(慮武ヒョン、金偏に玄) は済州島を訪れ、島民と懇談してこの事件のことを初めて謝罪した。ノ・ムヒョンはこう語った。
「誇らしい歴史も恥ずかしい歴史も、歴史はありのままを明らかにして整理しなければなりません。とりわけ国家権力による誤りは整理せずに済ませることはできません」
ドイツの戦後の反省は極めて厳しいものだった。果たして、日本はどうだったのだろうか。沖縄戦での日本軍の振る舞いに対して、日本の政府はどれだけ明らかにしているだろう。
北朝鮮では政府の考えに反対する人は今でも弾圧されてる。民主主義の、歴史をきちんと明らかにする国でなければ、人は安心して暮らせない。
済州島訪問では国家の犯罪ということを考えさせられた。
?
ケータイでもご覧いただけます。
左のQRコードを読み込んでください。うまく読み込めない場合は下のURLを直接入力してご覧ください。
Copyright© Matsumoto Takeshi. All rights reserved.