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つれづれ日記/安曇野ちひろ美術館前館長、長野県信濃美術館・東山魁夷館前館長松本猛(たけし)のBlog

松本猛(たけし)のブログ「つれづれ日記」。日々の感じたことや考えたことなど、つれづれなるままに綴っていきます。

秋の奥蓼科散策

更新日:2011.10.23  |  カテゴリ:つれづれ日記

奥蓼科から八ヶ岳を望む
八ヶ岳の裾野の向こうに南アルプスを望む
奥蓼科の白樺林

  

9月末から2週間ほど東山魁夷の取材でドイツ・オーストリアを巡り、ハンガリーのブタペストまで足をのばした。こちらの報告は写真の整理がついてからいずれブログにアップする予定です。
 先日、信州自遊塾(http://www.jiyujuku.org/)と手を携えて活動しようという諏訪自然塾の開講式があった。このとき、塾長の清水馨さん(奥蓼科のぬしであり、野生植物の神様のような人)や地質学者の熊井久雄さんの案内で5時間ほど奥蓼科の自然のなかを散策した。
 むかしは富士山より八ヶ岳のほうが高く、富士山が怒って蹴飛ばしたら八ヶ岳の頭が割れた、という伝説は、実は真実だと熊井先生から聞いた。裾野の広がりや角度から計算すると、八ヶ岳は4000m以上の高さだったことが推定されるそうだ。その後に起こった何回かの噴火で頭が割れ、低くなったというのが実情らしい。
 
 亜高山植物が群生している一角や、観光のために外来植物であるドイツトウヒが植林されてしまった地域、県が湿地帯から水を抜いてしまった地域、ダム予定地だった地域に自然林が芽生え始めすでに100種類以上の樹木が確認されている地域など、自然がどうあるべきかを考え、感じながらの貴重な山行だった。
 強酸性の渋川の水を引いてつくられた、ため池である御射鹿池は東山魁夷が、白い馬が森を歩く絵「緑響く」を描いたところ。絵と同じような写真を撮影することもできた。
 ドイツ・オーストリアの自然はよく保存され、感動したが、日本の自然のすばらしさを実感として認識し、きちんとした知識を持つ人が増えなければ、自然保護というのはそう簡単ではない。諏訪自然塾の発展を期待する。(諏訪自然塾事務局 〒391-0013 茅野市宮川6630-16 松本修二 ファックス0266-73-9596)
 信州自遊塾では諏訪自然塾の塾長清水馨さんの案内で奥蓼科を散策しお話をうかがう会(小旅行講座)を12月3日に予定しています。詳細が決まり次第HPに発表します。僕自身も東山魁夷の自然観と蓼科で描いた作品について少し話そうと思っています。

 ?信州自遊塾の第2回講座「女優・根岸季衣と3.11後の生き方を語ろう」が29日13:30から豊科交流学習センター(豊科近代美術館となり)で開かれます。根岸さんはエネルギッシュで人間的にもとても魅力的な人。当日は朗読あり、歌ありの楽しい会になりそうで、対談をするのがいまから楽しみです。お時間のある方は是非お出かけください。詳細は信州自遊塾(http://www.jiyujuku.org/)まで。

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松本猛

秋の光

更新日:2011.09.14  |  カテゴリ:つれづれ日記

そば畑の向こうに稲穂が光る安曇野

  

 中秋の名月を過ぎ、安曇野は一気に秋の気配が漂いはじめた。虫たちはそれぞれの音色を響かせ、軒下や木立のあいだのクモの巣は、風に揺れてキラキラ輝く。
 山桜の葉が静かに落ちると、かさこそと音を立てて動いていった。秋が来たのだ。林の中を歩くと、枯葉がが敷きつめられ、キノコが顔をのぞかせている。
 キノコの季節が始まると思うとうれしいが、先日行った福島のことを考えると悲しくなる。野山は放射能に汚染され、キノコはもっともあぶない食べ物になってしまった。福島では何年もキノコ狩りができなくなるのだろうか。
 9月11日に信州自遊塾のシンポジューム「信州の自然エネルギーを考える」が無事に終わってほっと一息ついた。自然の美しさに気づくのは、やはり心に余裕が生まれたからだろうか。
 秋の光を反射させながら、透きとおった川の流れは水底の石の表情を豊かに見せる。川を眺めながら、シンポジュームの話を思い出した。小水力発電は、幅数十センチの水路でもちゃんと電力を生み出す。汚染水を出すこともなく環境にも優しい。送電ロスも少ないから、無駄な電力を作らないでもすむ。原発につぎ込む莫大なお金を、自然エネルギーのために使うという発想を、どうして政府や経済界の人々は考えられないのだろう。原発マネーに群がる人に、日本や地球を任せたくない。
 

松本猛

福島小学校取材

更新日:2011.09.08  |  カテゴリ:つれづれ日記

これ以上進入できない浪江町の道路
表土を剥いだ川俣町の小学校の校庭
ブルーシートの中には汚染された土がある

   

先日、福島の小学校を訪ねた。飯舘村の避難を余儀なくされている三つの小学校は伊達郡川俣町の中学校を借りて授業をしていた。しかし、元気いっぱいの子どもたちは外に出ることができない。
3月以降避難するまでに被曝した放射線量が高いからだ。外にでるということは、放射線の蓄積量を増やすことになる。飯舘の子どもたちは全員ホールボディーカウンターの検査を受け、かなりの時間が経過した後のチェックだったにもかかわらずヨウ素やセシウム反応が高かった子もいたそうだ。
子どもたちは、それぞれの保護者が避難している家や仮設住宅からスクールバスで通ってくる。遠い子は1時間半もかかる。
飯舘では約、3割の子どもが転校している。子どもの健康を考えれば、だれもが転校したいのかもしれないが、その条件のない家庭も多い。一方、福島の他地域に避難していた子どもが戻ってきている例も少なくないが、それは、福島市も郡山市も放射線量が高く、いっそ同じくらいならば飯舘に近い地域で暮らし、川俣中学校に移転した友達の多い小学校に戻る方がいいという判断が生まれたからだろう。実際、転校先でいじめにあったり、なじめない子どもの例が少なくないと先生は語っていた。
飯舘村だけではなく実は、福島市でも伊達市でも郡山市でも汚染度の高い地域がある。外で遊ばせるか、プールに入れるかなどの判断は、それぞれの小学校の校長の判断にゆだねられる。同じ地域でも、避難勧告がなされた家とそうでない家もある。その子達は同じ小学校に通う。住民の中の考え方も必ずしも同じではない。そこにはさまざまな問題が渦巻いている。地域によって状況がちがうのはわかるが、校長の判断に任せるといっても、それは行政の責任放棄のようにも感じられる。きちんとした情報公開と、子どもの安全を考えた複数の専門家の説明が行なわれなければならない。当初、たいしたことはない、心配するなといい続けた専門家の責任は大きい。
放射線は目に見えないだけに、時がたつと、防御意識が薄れてきているという人もいる。たしかにマスクや長袖を着ている子どもは数が少なくなっていた。以前と何も変わらないように見える日常があれば、いつの間にか被曝の恐怖は薄らいでいくのかもしれない。
しかし、通学路も野山も校庭のように表土をはがすわけには行かない。しかも。放射線の被曝の影響は時がたってからでてくる。被曝した人たちに対する放射線を使う検診のあり方も考え直さねばならないと指摘する医師もいる。
福島の実態を伝える作業はあらゆる分野で行なわれなければならない。それはマスコミだけでなく、文学や映像、美術を含めあらゆる文化・芸術の分野でも発言していくことが求められている。その人たちの生活がどうであるのか、心の問題、哲学の問題、さまざまな論議が必要になっている。
私は、いま、子どもたちが、どういう状況に置かれ、何を考えているのかを、子どもや親に伝える絵本の制作に取り組み始めている。
 

松本猛

信州自遊塾

更新日:2011.08.21  |  カテゴリ:つれづれ日記

この夏はほんとうにいろいろなことが重なり、すっかりブログからご無沙汰してしまいました。

忙しかった理由の一つに信州自遊塾の立ち上げがありました。3.11以後、われわれはどう生きたらいいのだろうか、という問いをたくさんの人が発してきました。松本大学の元学長の中野和朗先生と、ちゃんとものを考え話し合う場が必要な時代だと話し合う中で、信州自遊塾というものをつくろうということになりました。中野先生が名誉塾長で、不肖、私が塾長を務めさせていただくことになりました。松本、安曇野、塩尻、諏訪などから30人ほどの運営委員が集まり、塾の方針を決めて、楽しく考え、語り合おうという場です。第一回イベントとしてシンポジュームを9月11日に松本大学で行ないます。テーマは「信州の自然エネルギーを考える」です。詳細は以下のHPをご覧ください。入会もここからできます。皆さんの参加をお待ちしております。

http://www.jiyujuku.org/

お勧め展覧会二つ。

松樹路人展 茅野市美術館 8月29日まで

松樹さんは古今の美術を本当によく研究し、美術史に名を残した人々の作品の特徴を、見る人にわかるように絵のなかに取り込んでいます。しかも、絵を見ていると、松樹さんがその作品とどんな会話をして来たかが、感じ取れるのです。真面目な絵でありながら、ユーモアが潜み、絵を読むことが楽しくなる作品展です。

http://www.chinoshiminkan.jp/museum/index.htm

瀬川康男展 ちひろ美術館東京 10月23日まで

400万部を越すロングセラー絵本「いないいないばあ」などを描き、去年亡くなった瀬川さんの遺作展。瀬川さんもまた、古今東西の美術に精通した画家でした。彼が影響を受けたのは民衆が作り上げてきた美術や装飾でした。そのなかにのなかに人間の個性を超えた生命の生動があると感じたのでしょう。自然界の生命の躍動をこんな風にとらえた人はいなかったのではないでしょうか。

http://www.chihiro.jp/

松本猛

金子みすゞのふるさと仙崎

更新日:2011.07.06  |  カテゴリ:つれづれ日記

仙崎の街並みと金子みすゞ記念会(金子文英堂)

金子みすゞの部屋

家のそばの道ばたに咲くホタルブクロ
 我が家の近くの道ばたにホタルブクロがたくさん咲いていた。
 ホタルブクロの名のいわれは、蛍が出るころ、水辺近くに咲くこの花に蛍を入れて遊んだからといわれる。子どものころ、蚊帳に蛍を入れて遊んだことはあったが、いにしえの遊びはなんと優雅なことだったか。
 詩人の金子みすゞだったら、どんな詩を作っただろうと、思いをめぐらせた。蛍に寄り添うか、ホタルブクロに寄り添うか、はたまた、ほのかに灯りが点滅する提灯型の花の美しさを詠っただろうか。
 しばらく前、山口県長門市仙崎にある金子みすゞ記念館を訪ねた。仙崎はかつて鯨漁で栄えた港町で今も古い町並みが残っている。記念館はかつて金子みすゞが住んでいた「金子文英堂」の看板が掛かる、昔ながらの本屋が入口になっている。帳場の裏から二階に上がると部屋が復元されており、大正の時代へタイムスリップしたような錯覚にとらわれる。家を出て、奥に広がる記念館に入ると、ここもなかなか雰囲気のある建物で、展示も工夫してあり、楽しめる。
 のんびりと町中を歩くと、みすゞ自身が童謡などに詠った場所にはその詩が飾られていた。それどころかどの家にもみすゞの詩が飾られている。それぞれの家の人が選んだ詩なのだろうか。今、この1キロほど続く通りは「みすゞ通り」と呼ばれている。町の人々も、命への優しいまなざしを持ち続けながら、幸薄く、若くして命を絶ったみすゞのことを愛しているように思われた。
 墓に詣でながら、仙崎の町は金子みすゞの詩が世の中で再評価されることによって甦ったのかもしれないと思った。
 一人の詩人の作品が、古い町並みを残すのに役立っている。
 「すずと、小鳥と、それからわたし、みんなちがって、みんないい。」
 日本の駅前の姿がどこも同じようになっていくことに、みすゞが生きていたらなんと思っただろう。
 仙崎が、個性豊かな町であり続けることを願って仙崎を後にした。

松本猛

ポニョの舞台、鞆の浦

更新日:2011.06.22  |  カテゴリ:つれづれ日記

瀬戸内海に二つしか残っていない常夜灯

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ジブリのアニメーション映画「崖の上のポニョ」の舞台になったのが広島県福山市の鞆の浦だ。万葉の時代から歌に読まれる景勝地で、古い町並みが残ることで知られている。歴史的な街とポニョの舞台ということも興味があったが、もう一つ訪ねてみたい理由があった。鞆の浦は埋め立てと架橋工事が計画され、それに対し、反対派の住民が訴訟を起こし、広島地裁が差し止めの判決を下した。歴史的景観の保護を理由に大型公共工事にストップがかけられたのははじめてのことだった。
観光案内所で「どこに架橋は計画されたのですか」と観光地図を見せると、女性の担当者は鞆の浦のシンボルである常夜燈のあたりから湾の西の方向へ乱暴に線を引いた。たしかにこの位置に架橋ができれば、古い町の景観は根こそぎ崩れてしまうだろう。観光に携わる人にとっては許しがたいことにちがいない。彼女が苛立ちを隠さないことも理解できた。しかし、町は真っ二つに意見が分かれているという。
町中を歩くと、坂の多い地域に驚くほど古い家並みが続いていた。遅い昼食を食べた店は奥が深く、中庭に面した建物は築3百年を越すということだった。観光客は「なんといい風情だろう」と喜ぶが、こうした家で生活することは、並大抵の苦労ではないはずだ。維持費はもとより、近代的な生活は望むべくもない。古い町に住むという喜びと誇りがなければ耐えられることではないだろう。
効率と便利さと町の経済の繁栄を考えれば、おおきな架橋を作ることによって職が生まれ、経済が活性化すると考える人がいることもわからなくはない。
宮崎駿がなぜ「ポニョ」の舞台に鞆の浦を選んだのかは知らない。しかし、この町に何ヶ月も滞在していれば、あわただしい日常から隔離され、創作に専念できただろうということは容易に想像できる。フランスの地中海沿岸には鷲の巣村と呼ばれる中世の町並みが残る村がいくつもある。丘の上で城壁に囲まれ、坂だらけで車も通れなければ、近代的生活とは縁もゆかりもない。しかし、そこでの生活を愛している人々がいる。
鞆の浦は潮目が変わる地点で、昔から航海の要所だった。ここに滞在して潮目が変わるのを待ったので町が栄えたのだという。潮の流れの境はよい漁場でもある。
おいしい魚を食べながら考えた。
現代人は、急ぎすぎている。不便ななかに喜びを見出すということを忘れてしまった。谷崎潤一郎が『陰影礼賛』のなかで、影があるから日向のよさもわかるというようなことを言っていたと記憶している。「明るいナショナル」に象徴されるように現代は明るいこと、便利なこと、効率がよいことだけに価値を置いてしまったように思う。影がないことが文明だと勘違いしてしまったのではないだろうか。影のよさを見失ったときに、人はどこに向かって走り続けるのだろう。
空想を生む力は、古い町並みの影の中に潜んでいるのではないかと思った。
鞆の浦にもう一度、ゆっくり滞在して、もの思いにふけってみたい。

松本猛

世界記憶遺産・炭鉱記録画

更新日:2011.06.16  |  カテゴリ:つれづれ日記

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福岡県田川市の石炭・歴史博物館でユネスコの世界記憶遺産に指定された山本作兵衛の炭鉱記録画を見てきた。田川市には炭鉱の坑道に入るための縦抗の鉄塔や煙突がまだ保存され、おおきなボタ山も残っており、当時の炭鉱町の姿が偲ばれる。

1960年ころ、石油資本の圧力などによるエネルギー政策の転換によって、炭鉱閉鎖が次々と行われ、大変な労働争議が起こった。そのころ、ぼくは小学生だった。父の松本善明がが労働争議の弁護士をしていたこともあって、当時の記憶は鮮明に残っている。

「あんま~り煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろ・・・」と歌う炭坑節の煙突(写真)を目の当たりにし、写真資料を見ながら、当時の活況と喧騒が伝わり感慨深かった。

抗夫として働いた山本作兵衛が描いた炭鉱記録画は、炭鉱労働者の過酷な仕事を伝えていて、ひきつけられた。あらためて絵とは何かを考えさせられた。

作兵衛は7歳で父について炭鉱に入って以来、半世紀も炭鉱で働き続け、60代半ばから子や孫に炭鉱での生活を伝えたいと筆を取り、1000点以上の作品を描き残した。人の、伝えたいという意思は、想像を超えるエネルギーを発揮するのだろう。

作品の技術がどうのこうのという以上に、作兵衛の絵は心に届くものがある。本来、絵は表現であると同時にドキュメンテーションとしての役割を持つ。

たとえば、絵巻や江戸絵本にしても(もちろん外国の絵でも同じだが)アートとしての価値と歴史資料としての価値がある。アートとしての価値とはなんだろうか。技術がどれほどすぐれていても、心に響かない作品は山ほどある。作兵衛は専門的に絵を学んだわけではないから、描き方は素朴である。しかし、多くの人の心を揺さぶる。

わずかな光しかなかった暗闇の坑道の中の状況は、実際には絵のようには見えない。しかし、作兵衛は、その中で仕事をした人間としての実感があったからこそ、リアルな迫力を持って、わかりやすい絵を描くことができた。

絵を描くということは、あらためて、表現したいものがあって、それを伝えたいという強い意思があるときこそ力を持つのだということを考えさせられた。

石炭というのは堆積した木の量によって層の厚さが変わる。大手の会社は厚い層の鉱脈を機械を導入して掘る。それに対して、弱小の会社は薄い石炭層を彫るから、上の絵のような腹ばいになった掘り方をせざるを得ないのだそうだ。それは落盤の危険を常に背負っている。給料は危険負担がある分だけ高かったそうだが、炭鉱工夫は、いつ死ぬかわからないという状況の中で、宵越しの金は残さない、という生活をしたそうだ。だからこそ、炭鉱の町は活気にあふれていた。

現在、ほとんどの炭鉱は水没させられ、再掘削は不可能だという。日本の石炭輸入量は現在増え続けている。原発の問題を含めて日本のエネルギー政策というものを、もう一度考えねばなるまい。

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松本猛

千葉県鹿野山

更新日:2011.05.31  |  カテゴリ:つれづれ日記

ブログからすっかりご無沙汰してしまい、読んでいてくださった方には申し訳ありませんでした。安曇野を離れていることが多く、余裕があまりない日が続くと、つい書くのがおろそかになってしまいました。

6月6日と27日NHKBSで夜の9時から「美の饗宴 東山魁夷 日本の心を旅する」という番組に出演します。一回目はドイツをテーマにした番組。20日の二回目は出演しませんが京都がテーマです。三回目は「山河に見つけた原点」というテーマで信州の自然が出てきます。

先日、東山魁夷が世に認められるようになるきっかけになった作品「残照」の取材地である千葉県房総の山、鹿野山にロケに行ってきました。

魁夷は終戦の直前、迫撃兵としての熊本で訓練を受けていたのですが、そのとき熊本城の天守閣から見た夕日を浴びる阿蘇山の風景に涙が出るほど感動したと記しています。二度と生きて絵筆を握ることはありえないという状況だったからこそ、あれほど感動したのだろう、と魁夷はいいます。戦争が終わって1946年に魁夷は鹿野山に登り、延々と山並みが続く九十九谷の景色を眺め、スケッチをし、その風景の上に阿蘇山ならぬ、夕日に映える八ヶ岳を重ね合わせて描きました。八ヶ岳付近は学生時代から通い詰めた信州の地のひとつであり、一年の内三分の一も滞在していたことがあるところです。風景のかなたに画家としての出発点になった山の景色を描きこみたかったのでしょう。

鹿野山の上から、魁夷と同じように景色を眺めながらいくつかのことに気づきました。まず描いた位置は現在の展望台より少し高いところだったろうと絵と風景を比較しながら感じました。魁夷が、描いたと思われる地点は、実はゴルフ場で削られてしまっていました。山並みが続く風景の中にも、点々とゴルフコースがあり、昔の景色とは面影を変えていました。

魁夷は大学を終え、ドイツに留学していたのですが、60歳を過ぎてドイツに行ったとき、20台のときと同じ景色がしっかり残っていると感動しています。魁夷は、政治的発言はしない人でしたが、自然保護についてだけは語り続け、現代社会は急ぎすぎているのではないかといい、ドイツの自然や古い町並みを大切にする国民性に惹かれると語っています。

魁夷が、今回の原発の問題を目の当たりにしたとしたら、どんな言葉を発したでしょう。彼の愛するドイツは脱原発に舵を切りました。

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松本猛

ナショナリズム

更新日:2011.05.04  |  カテゴリ:つれづれ日記

 オサマ・ビンラディンがアメリカ軍によって殺害された。これによって、テロがなくなると考える人はほとんどいない。にもかかわらず、アメリカでおこなわれた調査の一つによれば93%がこの攻撃を支持しているという。

 9.11の出来事は何の罪もない人々が犠牲になったわけだから、あの行動が許されるはずはない。しかし、その後、アメリカによるイラクやアフガンでの報復戦争では、何万というやはり何の罪もない市民が犠牲になった。これについて、アメリカ政府はどう考えているのだろう。暴力によって暴力は抑えられないということは、世界の歴史が教えているにもかかわらず、なぜこうしたことが繰り返されるのだろうか。

 イラクやアフガンへのブッシュ前大統領に対して批判的だったはずのオバマ大統領が、この行動を許可したということの背景には、自身の支持率の著しい低下があったのではないだろうか。国民の目線を外に向け、ナショナリズムを高揚させるということも、国家権力がたびたび行ってきた常套手段だ。たしかに一時的には国民意識は外に向く。オバマ大統領には期待している部分も多いだけに、今回の判断は残念だ。

 ひるがえって、日本の状況にも一抹の不安を感じる。今、「日本は強い国」「日本は一つ」というスローガンが国中にあふれている。たしかに、震災と原発被害に対して、日本国民が支援をすることは大切だし、やらねばならないことだ。被災地への支援の気運を高めることは重要だろう。しかし、この言葉自体が一人歩きすることに不安を感じる。

 たくさんの問題を抱えている日本が、この言葉によって、その一つ一つが見えなくならないようにしなければならない。

 原発の問題も実は国策によって安全神話が作られてきた。原発に疑問を表明する学者はどんなに優秀だったとしても、助手までにしかなれなかったというのは常識だそうだ。教授への道も閉ざされ、研究予算も付かなければ、節を曲げる人もいたにちがいない。 テレビで解説をしてきた多くの学者たちは、基本的には原発推進派だった人が多いのだろう。原発に対して技術的な解説に終始し、本質論を展開する人は少なかったように見える。

 国が、政府の都合によって自由な意思を押さえつけるということはもっとも行ってはならないことだ。権力は、世論を誘導することが一定は可能である。原発問題は国策ということに対して大きな問題を提起している。本来の民主主義のあり方を、ナショナリズムの問題ともあわせてもう一度考えるときだろう。

視野を広く持った批判精神を維持し、それを発表する場を確保していくことが大切だ。

 

松本猛

済州島(2)

更新日:2011.04.26  |  カテゴリ:つれづれ日記

済州島四・三事件というのをご存知だろうか。

済州4.3平和公園にある記念館に足を踏み入れたとき、自分がほとんどこの事件について知らなかったことにショックを受けた。

1945年、第二次世界大戦で日本が降伏すると、朝鮮半島は38度線で北はソビエト軍、南はアメリカ軍によって分割され、占領統治が始まった。しかし、占領した国の思想がちがうからといって、そこに住む人々にさまざまな考えを持つ人がいることは当たり前である。一つの国として選挙をして独立国になるるべきだと考える人たちもたくさんいた。

済州島では1947年、南北が統一された自主独立国家の樹立を求めるデモを行った島民に対し、警察が子どもを含めた6人を射殺するということが起こった。アメリカ軍は、南朝鮮を反共の砦にしなければならないと考えていたから、反共の政権を作り上げようとしていた。翌年の1948年に南朝鮮は北朝鮮抜きの単独選挙を行うことが決定された。済州島でも左右両派の対立が起こり、4月3日、単独選挙に反対する島民の蜂起が起こる。蜂起は軍や警察によって鎮圧されるが、そこから済州島の悲劇は始まる。

アメリカ軍は済州島をレッドアイランドと呼び、共産主義者ではない島民に対しても容赦なく取り締まった。8月15日に大韓民国が樹立されてからも、拷問、虐殺など筆舌に尽くしがたい弾圧が続き、1954年9月21日までに2万5千人から3万人の犠牲者が出た。

済州島は歴史的に流刑地だったこともあり、本土からの差別も激しいところだったそうだ。貧しさのために、日本が韓国を併合していた時代に日本に渡った人々のかなりの数が済州島民だったという。さらに四・三時件以後、弾圧を逃れるために再び日本へ脱出、密入国した人々も相当の数にのぼり、島民の一部は大阪にコミュニティーを建設したという。

記念館で説明してくれた人は、被害者だけがいて、加害者はわからない事件なのだと語った。つまり、国家が行った犯罪は不問に付されるということだ。この虐殺が公にきちんと調べられるようになったのは、実はキム・デジュン(金大中)が大統領になってからのことだ。なんと事件が起きてから半世紀を必要とした。反共を国是としていた韓国では、この事件は表ざたにしたくなかったのだ。

21世紀になって大統領のノ・ムヒョン(慮武ヒョン、金偏に玄) は済州島を訪れ、島民と懇談してこの事件のことを初めて謝罪した。ノ・ムヒョンはこう語った。

「誇らしい歴史も恥ずかしい歴史も、歴史はありのままを明らかにして整理しなければなりません。とりわけ国家権力による誤りは整理せずに済ませることはできません」

ドイツの戦後の反省は極めて厳しいものだった。果たして、日本はどうだったのだろうか。沖縄戦での日本軍の振る舞いに対して、日本の政府はどれだけ明らかにしているだろう。

北朝鮮では政府の考えに反対する人は今でも弾圧されてる。民主主義の、歴史をきちんと明らかにする国でなければ、人は安心して暮らせない。

済州島訪問では国家の犯罪ということを考えさせられた。

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松本猛

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