松本猛(たけし)のブログ「つれづれ日記」。日々の感じたことや考えたことなど、つれづれなるままに綴っていきます。
?写真上より 韓国茶道手前、済州島の象徴トルハルバン(石のおじさん)、市場の賑わい
韓国の済州(チェジュ)島へ行ってきた。信州渡来人倶楽部の一員として済州島文化フォーラムの方々との文化交流を目的とした旅だった。日韓の茶道交流(写真)をはじめ、音楽、芸能、食文化、美術・陶芸、博物館見学など、フォーラムの方たちのおかげで、済州島の文化を満喫することができた。また、6月18日から7月26日まで済州道立現代美術館で開催される「ちひろ展」の会場チェックや学芸員と話す機会もあり、なかなか有意義な旅だった。
済州島は北緯33.5度、東経126.5度あたりに位置する。つまり、緯度では佐賀や高知や和歌山あたり、経度では宮古島と沖縄本島間くらいに位置する。見慣れた地図では緯度を意識していなかったせいなのだが、ずっと北のほうにあるとばかり思い込んでいた。韓国のハワイといわれるのもうなづける。
第二次世界大戦のとき関東軍が本土防衛の最終防衛ラインとして済州島に巨大地下壕を建設したのはロケーションから考えれば当然のことだったのだ。この地下壕は現在も保存され、平和博物館として運営されている。年間30万人もの人が訪れると言うが、その多くが修学旅行の学生たちだ。済州島の人が日本軍の命令によって過酷な労働を強いられ、壕を掘ったことが、現場で語り伝えられている。同時に、この博物館は日本との交流をしっかりと進めようという姿勢を持っている。
長野県の松代大本営の地下壕も同じようにして作られた。この壕を保存し、戦争の実態を伝えていこうという人々によって、松代も維持されているが、済州島のように、日本中の学校教育と連携できるようになればいい。済州島の平和博物館と松代大本営を広めていこうというグループが協力し合い、交流があるということは、大切なことだと感じた。
事実をしっかり見つめ、そこから新しい友好は築かれねばならない。(この項続く)
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最近、東京へ出張するたびに感じるのは、東京が暗いことだ。
駅も、デパートも、店もどこもかしこも暗い。電車もダイヤどおりに走っていないことも少なくない。中央線の特急「あずさ」は前日まで走るかどうかわからないということで、予約ができない。
あらためて、われわれの生活がどれほど電気によって支えられていたかを思い知らされる。
しかし、と思う。ぼくの子ども時代はどうだったのだろう。町はこんなに明るくなかったし、暖房だって、学校は石炭ストーブで、家には炭の炬燵があり、おしゃれな石油ストーブがあることは近代的な家の象徴だった。祖父母のいる信州に来れば、薪ストーブが当たり前だった。
電気釜も、冷蔵庫も、電気掃除機も、テレビもなかった。列車は蒸気機関車がもくもくと煙を吐いてがんばっていてた。
しかし、今は家中に電化製品があふれ、オール電化の家が、憧れの的になっている。エアコンによる暖房が当たり前で、この夏はエアコンの冷房による電力不足が懸念されている。昔は冷房なんてなかった。
うろ覚えだが、ソビエト革命のとき、レーニンが社会主義とは「電化である」と語ったという文章を読んだ記憶がある。厳しい労働を軽減し、人間が豊かに暮らせることを「電化」に託した言葉だと理解した。子どものころ、ぼくは科学技術の発展は人類の幸福につながると信じて疑わなかった。
たしかに、科学の発達により、人間の生活は便利になり、効率はよくなったかもしれない。しかし、この数十年の間に失ってきたものも多いのではないだろうか。
文明化ということは、人間の持っている力を劣化させ、自然の恵みに感謝し、自然とともに生きるという思想を過去のものにしてしまったのではないだろうか。
いま、私たちは科学技術礼賛の哲学を、一度立ち止まって見直す時期に来ているのではないだろうか。
人の幸せとは何かを問い直す必要がある。新しい、哲学が求められている。
彫刻家の佐藤忠良(ちゅうりょう)さんが3月30日に亡くなった。98歳だったから大往生というべきなのかもしれないけれど、つい数年前まで自転車に乗り、アトリエの中も走って動いていたので、やはりショックだ。いわさきちひろとも親しく、ぼくは子どものころからお目にかかっていた。
ちひろ美術館を作ってからは、折に触れてお会いする機会があった。「忠良とちひろ展」を企画させてもらったこともある。ぼくがアトリエをお訪ねしたり、忠良さんが美術館にいらっしゃることもよくあった。
忠良さんは一時期、「小児科」と呼ばれるほど、子どもを作っていた時期があった。本当に動き出しそうな子どもの彫刻は、抱きしめたいほどかわいい。よくおっしゃっていたのは、俗にこびるようなかわいらしさに向かってはいけない、わかりやすく親しみが持てることは大切だが、ぎりぎりのところで踏ん張らねばならない、ということだった。もう一つ印象に残っているのは、人は重力に逆らって立っている。彫刻は重力を跳ね返すような内なる力が必要だ、と語っていたことだ。
忠良さんの彫刻に感じるエネルギーは、その生き方にも関係しているだろう。重力に逆らうように、権力に迎合しないでご自身の信じる道を貫いていらした。
「おおきなかぶ」という絵本も描かれたが、絵本の読者のお母さん方に会うと「彫刻も作られるのですか」といわれる、とうれしそうに笑っていた。
忠良さんのおしゃべりを聞くことが出来なくなったことはさびしいけれど、作品のなかにたくさんの思い出が詰まっている。
どうぞ安らかにお眠りください。
庭に蕗の薹を見つけた。刻んで、砂糖を少しだけまぶして鰹節と醤油をかけてご飯にのせて食べる。ほろ苦い、春の香りが口に広がる。
素揚げにすると、油の中で花びらが開くように広がる。塩だけで食べる。
山国の信州にも春の兆しが見えてきた。たしかに、うれしいのだけれど、これほど悲しい春も経験したことがない。被災地に本当の春が訪れるのはいつのことだろう。
明日の毎日新聞に、日本絵本賞の発表がある。審査委員長を務め、講評を書いた。力作ぞろいの楽しい絵本がたくさんあって、審査にも熱が入った。しかし、表彰式は行われない。被災した人々の気持ちを考えればやむをえないかもしれない。
今は、被災地の方々は生きるだけで精一杯だろうが、一日も早く、少しは余裕が出てくることを願わずにはいられない。そんな時、子どもたちに、楽しい絵本を届けたい。本のなかで夢を広げて、生きる力をふくらませてほしい。
絵本作家の田島征三さんの作品に『ふきまんぶく』という名作がある。まん丸い顔をした生命力あふれるふきちゃんという少女と蕗の話だ。土のにおいにあふれ、自然の生命力というものを感じさせる絵本だ。
被災地の子どもたちがたくましく成長してくれることを願う。東北の山野にも蕗の薹は姿を現しているだろうか。
東北地方太平洋沖地震の惨劇については日本はもとより世界中の人々が心を痛めているだろう。
映像を見ていると、衝撃と悲しみと同時に自然のもつ力の恐ろしさに心が震える。人類が求め続けてきた文明の発達は、はたして、本当に人間を幸せにしてきたのだろうか、と地震と津波が引き起こした悲惨な映像を見ながら考えさせられた。
今のわれわれの生活は電気がなければこれほどまでにもろいものなのかと、東京電力の計画停電の状況を見ながら感じた。
政府も電力会社も原発は完璧に安全だといい続けてきたが、人間の作ったものである以上、おのずと限界があったというべきだろうか。何が原発を押し進めてきたかと考えると、経済論理と技術への盲信だったにちがいない。
先日、ブータンの国王顧問の人の話を聞いた。GDP(Gross Domesutic Product国内総生産)は低いかもしれないがGNH(Gross National Hapiness国民総幸福感)は高いと胸を張っていた。自然とふれあい、自由な時間を持つということこそ人間が安心して暮らす要素だという。日本は世界でも有数に豊かな国だというが、そのどちらも持たずに幸せだと胸をはれるのだろうか。以前、瀬戸内寂聴さんとお話をさせていただいたとき、日本は、戦後すべての価値をお金ではかるようになってしまった、と嘆かれていた。お金で買える便利さを求めて日本は発展してきた。それが幸福だと錯覚していた。しかし、そこで失ってきたものがたくさんあったのではなかっただろうか。
本質的に人間の能力を超えるエネルギーを持つ原子力という危険なものを扱っているという自覚なしに、人間の技術で原子力はコントロールできるという考えは、ダムで治水を行えると信じる考え方につながるように思える。人間は科学の発達に見合うだけの哲学を持たずに、文明だけを発展させてしまった。
今回の地震は、あらゆる人々に、自然というものの力と文明とは何かという問題を問いかけているように思えてならない。
被災地の復興事業を起こすとき、人間の生き方の原点もいっしょに考えていく必要があるだろう。
3月1日から、東京と安曇野のちひろ美術館が冬季休館を終え開館した。東京では「窓際のトットちゃん展」安曇野でもピエゾグラフによる「窓際のトットちゃん展」を開催している。
東京館でオープニングに先立って黒柳徹子さん(東京館の館長である)の講演があった。現在、「窓際のトットちゃん」の出版部数は国内で760万部。もちろん戦後最大のベストセラーだが、日本だけでなく世界30カ国以上でも翻訳されている。正確に何カ国といえないのは、出版契約を結んで出版している国のほかに、出版に関する取り決めに参加していない国があり、そこでは海賊版が出版されているからだ。その国々の数はかなりの数に上るらしい。
なぜ、トットちゃんの本が、これほどまでに普及するのだろう。「トットちゃんがやりたいことをやりまくっていく痛快さ、楽しさが、読者を喜ばせるにちがいない。子どもってこうなんだ」と誰もが共感できる姿が描かれているが、自分ではなかなかあそこまではできない。トットちゃんに空想の中で自分を重ねることは楽しいことだ。その楽しさの中に平和の問題、平等の問題、教育の問題等々、たくさんのわれわれが考えなければならないことが、ちゃんと書かれていることがすごい。
黒柳さんと雑談をしているとき、英国のエリザベス女王とあったときの話しを聞いた。皇室のように高貴な方々に対しては、問われたことに答えるだけ、というのが礼儀であり、しきたりなのだそうだ。ところが、黒柳さんは、例によって質問されたあと、自分からも質問してしまったのだそうだ。女王は一瞬びっくりして、固まったものの、ちゃんと応じられ、それから20分も会話が続いてしまったという。後の人たちをずいぶんと待たせてしまい悪かったという話しだった。そのあとの黒柳さんが言った言葉が面白かった。「私は、ゴリラでも、女王様でも、どこの国の子どもでも同じように話しちゃうのよね」
トットちゃんの本の面白さは、人間のみならず、動物にでも何にでも、同じように興味を持ち、差別や区別するという発想がまったくないところにあるのだと思う。
ぼくの母、いわさきちひろも、その意味では黒柳さんと似ているところがあった。二人は出会ったことはなかったけれど、黒柳さんの文章とちひろの絵がハーモニーを奏でることができたのは、共通の感性を持っていたからだと思う。
先日、まつもと市民芸術館で三島由紀夫原作、宮本亜門演出の「金閣寺」を観た。三島の精神世界を感じさせる耽美的な文学をどのように劇化するのだろうと興味を持ったからだ。
劇場に入って、まず驚いたことは客席を一杯に埋め尽くした客層だった。10代、20代の若い女性たちがひしめき合っていた。今まで、まつもと市民劇場で何回も芝居を見てきたが、こういうことは一度もなかった。理由は主役がジャニーズ事務所のアイドルグループV6の森田剛という人だったからだ。駐車場には確かに県外からのナンバーがあふれていた。関係者に聞いたところ、追っかけが全国から集まるということだった。
芝居中はオペラグラスで「森田君」だけを見ている人がかなりいた。幕間の休憩のとき携帯で話をしている人の声が耳に入った。「話しなんて、何がなんだかワカンナーイ」と笑顔でしゃべっていた。三島由紀夫も「金閣寺」も知らない世代が多かったのかもしれない。
舞台演出はヨーロッパの演劇ではやっている、演技者が動くところに舞台が流動的に作られていくというもので、視覚的には興味深いものだったが、内容はぼくには欲求不満が残るものだった。中身は小説の筋を追って、男女の恋愛と男同士のゲイ的関係をクローズアップしていたが、三島の文学世界とはかけ離れていたものだった。「金閣寺」という小説をどう評価するかはひとまずおいたとしても、あの緻密に構成された密度の濃い世界は演劇の中には微塵も感じられなかった。個々の役者の中には役を掘り下げて、どう人間を表現するかを真摯に追及している人もいたが、芝居全体として見れば演劇的緊張感は形成されていなかった。
?? この芝居は神奈川芸術劇場の?(こけら)落とし用に準備された作品だった。会場を満杯にしなければならないという、使命に対して宮本亜門がV6のメンバーを主役に使うという興行優先の判断をしたのだろう。
芝居が終わったとき、ぼくは拍手もほとんどせず座っていたのだが、若い女性たちは続々と立ち上がってスタンディングオベーションを行っていた。おそらくコンサートののりなのだろう。「森田君」は何回もカーテンコールで舞台に登場し、他の役者たちを舞台に招いた。
芝居が、興行的成功だけを求めたときこういう問題が起こると感じた。次々とアイドルを主役に抜擢して芝居を作っていったら、いずれ演劇はすたれるだろう。質の高いいいものを楽しむ観客を育てなければ演劇の未来はない。
碌山こと荻原守衛の没後100年展が2月5日から3月6日まで、県信濃美術館で開催されている。
安曇野の穂高にある碌山美術館は、家が近いこともありよく訪れていた。碌山の彫刻はそれなりに知っていたつもりだったが、今回の展示では、碌山美術館で見ていた荻原守衛の彫刻とはまったく印象が違った。良くも悪くも、安曇野の碌山美術館にある彫刻は、あの建物と風景と一体化して認識されている。寺院にある仏像が美術館の展覧会場に出てくると、まったく違う印象を持つのと同じだ。
信濃美術館では碌山の彫刻が、周りの風景や建物と切り離されて、独自に存在していた。あらためて、日本の近代彫刻の曙となった荻原守衛という作家が浮き上がって見えた。
セザンヌやモネやルノワールと同世代の彫刻家ロダンの強烈な影響を受け、ロダン風の作品を作った碌山だが、その作品はロダンのコピーではない。粘土の中に生命を吹き込むことに情熱を傾け、新しい時代を切り開こうとした個性が碌山の彫刻には感じられる。
形をきれいに作るのではなく、印象派の作家たちが、自分の感性で捉えた自然や人物を、独自のタッチで描き出したように、碌山の彫刻には、自らの手が生み出したタッチが強烈に現れている。セザンヌやルノワールやゴッホのタッチのように、碌山は彫刻の中に己のタッチを必要としたのだろう。碌山の作り出した人体の形の中にそれは刻まれている。
個性、個人の感覚、思想の表現ということを意識し始めた碌山というアーティストは、その人生の中でも個を貫いたといえるのではないだろうか。
現代は、恐ろしく早く流れる時流の中で、己というものの存在をしっかり見つめることが難しくなってきている。こういう時代だからこそ、碌山の彫刻は何か大切なことをわれわれに語りかけてくれているように思う。
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立春。春は名のみの・・・という言葉を使いことが多い近年、今日は名実ともに立春という感じだった。重いコートを脱ぎ、春の暖かさをしみじみと味わった。木や屋根から緩んだ雪が落ちる音に耳を傾け、日に暖められた土の香りを楽しんだ。旧暦の正月は今頃である。正月は春をめでたくなる時だったのだ。
もっとも、今日は温かかったといって、信州では、このまま春というわけにはいかない。寒の戻りは何回かあるだろう。
ところで、先日、友人の住む小田原を訪ねた。小田原城のあたりは梅が咲き誇り、寒桜まで咲き始めていた。海辺は砂が温められて、日向ぼっこをしながら、蕪村よろしく「春の海 ひねもすのたりのたりかな」と大海原を眺めた。
? 子どものころや若いころというのは、花も海もゆっくり眺めるということはなかった。あたりを見回すより、力の限り走り回り、目的に向かって突き進んでいたように思う。おそらく、エネルギーが満ち溢れている時代は他の命を愛でる余裕などなかったのだろう。
自然の姿の移ろいや、花を見つめる喜びをしみじみ味わえるようになったということは、うれしいことではある。けれど、それは、限りある命を意識する年齢になったからこそ、味わえるようになった喜びなのかもしれない。
ともあれ、初春を愛でることができた立春の一日だった。
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