松本猛(たけし)のブログ「つれづれ日記」。日々の感じたことや考えたことなど、つれづれなるままに綴っていきます。
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去年書いていた『選挙カーから見た信州』が完成した。今週から書店に並ぶはずだ。仕上がってみるとあらためて気になる文章も見えてきたりするが、形になったという喜びはある。同時に、本も、美術館の仕事も、どんな仕事でもそうなのだが、一つのプロジェクトが動くためには、何人もの人々の協力がなければならないとあらためて感じた。
膨大な編集の作業がなければ、この本はできなかったし、表紙絵やイラストレーションを描いてくれた中武ひでみつさんの力もおおきい。企画、デザイン、印刷、営業・・・。本を手にすると、この本にかかわった人々への感謝の念が大きくなる。実は、原稿を書く段階でもたくさんの人に取材協力をしていただいた。調査、研究のために読んだ資料や本を作った人々の努力も、この本の向こう側にはある。
中身に関しては、読者の人の判断にゆだねるしかないが、まずは手に取っていただかないと評価も生まれない。興味のある方は是非ご一読をお願いします。
信州という地域の中で、教育や農林業や福祉、医療、観光などさまざまな課題についてぼくなりに書いた本だが、一方で選挙というものの本質にも少し触れた。
信州を舞台にしているのだが、じつは、ここに書いた問題は日本はもとより、世界の中でも通用する問題がたくさん含まれている。ぼくの意見が絶対だ、などとは少しも思わないけれど、この本をきっかけに、子どもと、自然と文化を大切にして、社会的に弱い立場の人々が安心して暮らせる世の中を作るための論議が生まれるならば、これほどうれしいことはない。
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2~3年かぶりでスキーに行った。晴天に爺が岳や鹿島槍を間近にみなっら滑る爽快感は何ものにも代えがたい。若い友人といっしょに行ったので、つい調子に乗って、ガンガン滑ってしまった。翌日から足の付け根が痛い。
気分では若いころと同じように滑れると思っているのだが、急斜面や深い雪に直面すると、すぐバランスを崩す。やはり筋力の衰えは隠せない。もっとも、圧雪されたゲレンデではその衰えがあまり感じられないので、何本も滑ってしまい、後から足に来る。酒と同じで、少し自制しながらやるのがよさそうだ。
今年に入って、何人もの人に還暦ですね、といわれる。まだ数ヶ月あるし、実感はまるで無いので、そういわれると妙な気分になるのだが、肉体的にはたしかに自分の体力を自覚しなければならない時代に入ってきたようだ。もっとも気分的には、何年か前よりチャレンジ精神が旺盛になり、去年は知事選にまで挑戦してしまった。実際、還暦といっても第二の少年時代が始まるという感じで、好奇心一杯なのだ。
今シーズンはスキーに行きながら、スキーの魅力を、できれば少しものに書きたいと思う。また、夏はしばらく遠ざかっていた登山も再開しようと思う。若いときとは違った、楽しみ、面白さが見えてくる予感がある。
もっとも、肉体がそれを許さなくなればどうしようもないので、日々のトレーニングが大切だ。などと、肉体の心配をし始めるということが、還暦を迎えようとする年齢なのかもしれない。
新聞社が主催する文化人やスポーツ関係者が集まる新年会が長野市であった。たくさんの知人と挨拶を交わしたが、「あけましておめでとうございます」という挨拶をする人は限られていた。14日にもなれば、正月気分ではないと考える人が多いのかもしれない。
実を言うと、玄関の松飾をいつはずすかで、少し迷った。7日の朝、散歩がてらに近所の家を見て回ったが、まだ、飾ったままのお宅のほうが多いようだった。都会では7日にはずす方が多いという話を聞いて、調べてみた。広辞苑では、昔は元旦から15日まで、現在では普通7日までをいう、とあった。大言海も同じ。気になってもう少し調べると、俳句歳時記では、関東では元旦から6日まで、関西では15日までが慣習になっている、と書いてあった。京都や大阪では江戸幕府の言うことなどは無視していたのだろう。田舎は通達が届かなかったのかもしれない。
辞書というものは誰かが書くものだ。筆者の出身地によって内容は変わるのが当たり前と考えるほうがいいかもしれない。歴史的にはもともと15日までだったのが、寛文2年(1662)江戸幕府によって7日を飾り納めとする通達が出たという。これによって、関東では7日が松の内になったということらしい。といったところで、15日にしたのはいつのころからかは分からない。
ともあれ、盆も正月も時代とともに短縮され、その間も働く人がどんどん増えている。緩やかなときの流れは確実に消えていく。
もともと松飾は歳神様の道しるべとして置かれたものだそうだ。神様が鎮座する場所に鏡餅をお供えするわけだから、鏡餅はどこにおいてもいいというわけではなさそうだ。だんだん、神様の居場所も追いやられていくようだ。
季節とともに暮らす人の営みは、もはや過去のものになったのだろうか。何とか抵抗したいと思うのは、歳を重ねてきたせいだろうか。
といいつつ、今日あわただしく、『選挙カーから見た信州』(しなのき書房)の再校を出版社に戻した。本の出来上がりは27日か28日くらいになりそうだ。一息入れたいと思うのだが、我が家の鏡餅はすでに片付けられ、神様はどこかに帰ってしまった。旧暦の正月をもう一度やりたいとも思うが、そうも行かない。
ジタバタしたところで、もう15日だ。気合を入れて、今年を生きることにしよう。
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あけまして おめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします。
正月の挨拶には頌春(しょうしゅん)や迎春や初春というという言葉がよく使われる。春の到来を喜ぶ気持ちが込められた言葉だが、安曇野ではこれから雪の多い季節を迎えるのだから、いささかそぐわない感もある。もちろん、この言葉は旧暦が使われている時代に生まれたわけだから、今の暦で言えば、立春の前後、つまり2月にはいってからのことになる。誰にとっても春の気配を感じ取るのはうれしいことだから、この言葉が生まれたのだろう。ともあれ、新しい年は、よろこびをもって迎えたいものだ。
年末年始というのは、かつては仕事から解放されて、のんびりするのが当たり前だったはずだ。ところが、近年、どうも忙しい。この期間に、原稿をまとめて書くということが多くなったからだろうか。昨年の12月に何とか書き上げた『選挙カーから見た信州』(今月末、しなのき書房より出版予定)の校正など、いろいろやらねばならないことが多かった。
それでも、入稿してから年末に校正原稿が送られてくるまでの間に、久しぶりに映画を観る機会があった。若いころ読んだはずの「ノルウェイの森」の内容を覚えていなかったのでを観る気になったのだ。『1Q84』はまだ読んでいないが、村上春樹はいくつか読んで評価している作家の一人だ。『ノルウェイの森』の赤と緑の上下巻の表紙は鮮明に記憶に残っているのに、どうして内容が思い出せないのかが気になっていた。
映画は映像と音楽による心理描写など、エゼンシュテインのモンタージュ理論を思い出させるようなオーソドックスなつくりで、安心してみることができた。村上春樹はぼくより少し年上だが、ほぼ同世代だ。ぼく自身の若いころを重ね合わせるようにして観ることもでき、映画としては納得できるものだった。しかし、本の内容を思い出せたかというと、残念ながらあやふやなままだった。
あとからなぜなのだろうと考えた。それは描かれた時代と関係があると思い至った。ぼくは、70年安保やベトナム戦争に対して疑問を持ち、学生運動のさなかに身をおいていた。『ノルウェイの森』の舞台はまさにその時代だ。おそらく、あの時代を描くのに、人間の内面の問題だけに入り込む小説を、まだ若かったぼくは許せなかったのだろう。時代を見る感覚がぼくとは違うと思い、途中で読むことを放棄したのかもしれない。
学生のころ、ぼくは画壇の頂点にいた東山魁夷の絵をよく見もしないで否定していた。画壇的権威に対して疑問を呈していたぼくは、画壇の問題と魁夷を一緒くたにして否定しようとした。
今になれば、東山魁夷も村上春樹も、その価値が分かる。年齢を重ねるということは新しいものが見えてくることでもあるのだろう。
今年、年男のぼくは、今のぼくにしか見えないものを発見し、新しい地平を切り開いてみたい。
安曇野ちひろ美術館がある北安曇郡松川村の中学3年C組が「沖縄新聞」を発行した。
内容も体裁も見事なもので、ぼくは思わず引き込まれて熟読してしまった。何がすごいのかというと、取材力だ。一面トップは普天間中学3年4組生徒へのアンケートをもとに記事が書かれている。
「他県の中学生は沖縄の基地問題に対して関心があると思うか」という問いに対して、35人中29人、82.9%の人が「ないと思う」という回答だった。さらに、沖縄新聞の記者は、長野県内の中学にもアンケート調査を行い、大半が基地問題についてあまり知らないという回答を得ている。中学生という自分たちのたちの視点で調査をしていることが、記事を魅力的なものにしている。
県内の沖縄出身者への取材やさまざまな調査を行い、沖縄の歴史を掘り下げ、基地の問題点を自分たちの考えで整理している。12ページの記事はどれもが興味深く、違う生徒たちが執筆を担当している。おそらく事前の編集会議がしっかりと行われたうえで、役割分担が決まったのだろう。
社説ならぬ級説では、「守るための基地が、攻撃の対象になるということも、考えていくべきです。」と記し、「沖縄県民の今までの苦しみを知った上で、もう一度、沖縄に基地が必要かを考え直すべきだと思います。」と結ぶ。菅首相にも読んでもらいたい新聞だ。
この「沖縄新聞」の興味深い点は、授業で沖縄を学ぶのではなく、新聞を発行するという目的を持ったために、中学生たちが自力で取材をし、調査をしていることだ。中学生の能力にも驚かされたが、指導方法一つで、中学生の可能性が大きく広がることを感じさせられた。こういう教育こそが今の時代には必要なのだろう。
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久しぶりにスタッフド・チキンを作った。2・5kgの鶏に詰め物をして一時間半ほどオーブンで焼く。中の詰め物は人によって、それぞれ自由に工夫することができるから楽しい。ぼくの場合、ベーコンとタマネギ、ニンジン、シイタケ、マッシュルームを炒め、前の晩からブランデーに漬けておいたレーズンやクルミ、香りのある野菜のみじん切りとハーブ、牛乳と卵、クルトンを混ぜて作る。野菜は冷蔵庫のあまり物を適当に入れるが色味も配慮する。(今回はベーコンがなかったのでサラミで代用したらこれがなかなか良かった)
大切なのは焼き方。鶏に溶かしバターを塗ったあと、ベルモットを塗る。ベルモットはカクテルの王様マティーニを作るときに使う洋酒。味見のついでにジンと氷を加えて即席マティーニを作って舐めながら作業をした。ベルモットの銘柄はノイリー・プラットがいいと思う。230度で10分ほど焼いて焦げ色をつけ、今度は白ワインをたっぷりかける。皮がパリッと焼けて香り高いのがいい。180度に温度を下げて1時間半。時々、バターを塗って焼け具合をチェック。これが楽しい。焦げるといけないので、ちょうどいいところでアルミホイルをかけた。
出来上がりは、なかなか評判がよく、シェフはたいそう気を良くしたのでした。
料理はつくづくものづくりの楽しさを味あわせてくれる。味、香り、色、形、食感いろいろ考えながら作るのは、文章や絵をかくよりずっと楽しい。なんてったって、反応がすぐ分かるのがいい。
スタッフドチキンを食べた後、テレビで南極越冬隊のシェフをやっていた人の料理を見た。これは芸術だった。とにかく、物を捨ててはいけないということで、食べ残しを次々と新しい料理に生まれ変わらせていく。マジシャンのような技術に目を見張った。
ぼくも、早速、鶏の骨から肉をそぎ落とし、骨はスープにとり、翌日からの料理に生かしたのでありました。まあ、たいした物は作れませんでしたが、骨の髄までしゃぶりつくしました。
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昨日、安曇野ちひろ美術館で谷川俊太郎、賢作親子のトーク&コンサートが開かれた。俊太郎さんは詩人としてあまりにも有名だが、賢作さんはジャズピアニスト、作曲家、編曲家、音楽プロデューサーとして活躍している。賢作さんの音楽家としてのデビューは、30年ほど前、東京のちひろ美術館でのコンサートだった。
実は、このコンサートは昨年の今頃、東京のちひろ美術館で開催された谷川親子コンサートのあとの会食で、俊太郎さんといわさきちひろがともに12月15日生まれだということが分かったことがきっかけだった。そこで、安曇野で誕生日コンサートをやりましょうということになった。
俊太郎さんの詩の朗読に、するりと賢作さんのピアノが入り込んでいく感覚は、親子の呼吸というものなのだろうか。しかし、男親と息子というのは一般的には反発しあうものだ。どうしてあんなに溶け合うことができるのだろう。79歳と50歳という年齢がそれを可能にしたのかもしれない。ジャズの感覚が生きているのだろうか。もっとも、会話の中では、賢作さんが「売れている詩人には、売れない作曲家の気持ちなんか分からない」と突っ込んだりして、笑いを取っていたが。
俊太郎さんの話の中で興味を引いたのは、「自分は小説はかけない」といった言葉だった。詩は断片の積み重ねで、小説は物語の流れ。組み写真と映画の違いだろうか。ぼくはふっと、シュールリアリズムの絵画と詩の世界を重ねてみた。関係ない物体が一つの画面で組み合わされると不思議な世界が生まれる。詩は一つの言葉の持っているイメージと別の言葉の持っているイメージが出合うことで新しいイメージを生み出すところに面白さがある。
俊太郎さんの詩の朗読を聴いていると詩は、小説より音楽にはるかに近いように思われた。感覚的な世界なのに深い思想を感じるのはなぜだろう。
「人生の苦しいときにどう対応するのか」という問いに、俊太郎さんは、苦しみをとことん受け入れるというこたえ方をされた。受け止めることからしか先へは進めない、という。そうやってつむぎだされた言葉には奥行きがあるのだろうか。
音楽と言葉、時には絵本の映像も入って、楽しく、味わいのある断片が積み重なって、2時間という時間があっという間に過ぎた。このコンサート自体が一編の詩だったのかも知れない。
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このところ、ブログが疎遠になっていたのは、書いていた本の最後の追い込みで、アップアップしていたからだ。二ヶ月ほど前から、「知事選で見えた信州」というテーマで執筆をしていたのだが、今朝、ようやく脱稿した。農林業から教育、医療・福祉、観光などのテーマから選挙中の滑稽な話まで、ぼくが見た信州の魅力や課題について語っている。400字詰め原稿用紙にすると300枚を少し超えたくらいになる。
来春、しなのき書房から出版される予定だ。詳細が決まったら、ブログに書くけれど、興味のある方は楽しみに待っていてください。
原稿を書き終えて、久しぶりに、近くの野山を散策した。小春日和の気持ちのいい日で、中房川の川原から北を望むと爺ヶ岳、鹿島槍、五龍から白馬三山まで気持ちよく見渡せた。足元の川では太陽の光が紋をつくり、ゆらゆらとゆれていた。
原稿を書いているときは、毎回、本当にきついと思うが、書き上げたときの開放感は筆舌に尽くしがたい。
今年は、知事選に出るという、青天の霹靂のようなことが起こったが、本をまとめてみて、たくさんのことを学んだとしみじみ感じた。この本を書き終えて、新しい道を歩み始める力がわいてきた。
林は葉が落ちて、遠くまで見渡せるようになっていた。明るい太陽の光が差し込む森の小道を、風に舞う枯葉の音を聞きながら歩くのは至福のときだ。川面をかすめて飛ぶ小鳥のさえずりも楽しい。来年は、東山魁夷についての本を書こうかと思う。彼の哲学や自然観は単純ではないが、なかなか魅力的なのだ。
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しばらく長野をはなれていた。講演で行った兵庫県の西脇市は明石市の真北。東経135度、北緯35度に位置することから「日本のへそ」の位置にあるとアピールして「へそ公園」もある。北海道から沖縄までの東西南北を考えるとこのあたりが中心らしい。
かつて播州織で栄えた町は古い町並みや、ぎざぎざの屋根を持つ織物工場の建物がたくさん残っている。坂の多い古い町並みにはY字路がいくつもあった。この町出身の画家、横尾忠則は西脇のY字路をテーマにした絵をいくつも描いている。彼の子供時代に焼きついていた原風景はY字路なのだろう。人生の岐路をイメージさせるからだろうか、実はY字路を描く画家は多い。
夕暮れ時に小さな路地で子どもたちが遊んでいた。一瞬、子ども時代にもどったような錯覚を覚えた。昭和の20~30年代は、暗くなるまで子どもたちは外で遊んでいた。ひっそりとした、大正、昭和の古い町並みはいつまで残っていってくれるだろう。
同じ古い町並みでも、京都は趣がまったく違う。”記憶の中の町”と”歴史の中の町”という違いだろうか。ちょうど紅葉の盛りに連休が重なったこともあり、古都は人であふれていた。テレビの映像で見る紅葉の京都は、人を写さないので静かな古都のイメージが広がるが、現実は日本中の人が集まって来ているのではないかと思うほどだった。バスに乗れば通勤ラッシュそのものであり、普段はひっそりとした「哲学の道」は隙間もないほど人がぞろぞろ通っていた。紅葉で有名な寺はライトアップされ、入るまでに50分待ちということだったので、遠慮した。雑誌に載った料理屋はどこも長蛇の列。それでも、日本人は京都が好きなのだろう。寺の縁側に座り込めば、後ろの人々の気配すら感じていないように、眼前に広がる風景に浸りきっている人も少なくなかった。苔の緑とモミジの紅のコントラストは美しかったが、寺の室内にあふれる人と庭の静寂のコントラストも面白いといえば面白い。
夜、空を仰げば満月が煌々と輝いていた。平安の貴族たちの世界に思いをはせる。いつの時代も、この空は変わらない。
いくら、人が多いといっても、穴場は必ずあるもので、その一つが法然院の墓地だった。法然院までは人が多かったが、墓地はひっそりとして、誰もいなかった。谷崎潤一郎の墓石には「寂」という字が彫られている。その隣は静かな京都の家の屋根を象徴化して描いた日本画の大家、福田平八郎の墓だ。少し離れたところには「貧乏物語」を書いた経済学者の河上肇の墓もある。京都は歴史の街であると同時にさまざまな文化人を生み出してきた土地でもあった。
今は安曇野、太古より変わらぬ山の景色を眺める。安曇野はやはり美しい。
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